とてつもない文才でAV女優の“身体感覚”があざやかに伝わる。紗倉まなは得がたい書き手だ【梁木みのり】
『犬と厄年』『うつせみ』を読む
■AV女優の身体感覚があざやかに、そして生々しく
作品全体がドライに見えるのは主人公の態度の投影だろう。人気商売をしながらもどこか冷めていてやる気のない主人公は、それでも、否応なく外見やふるまいのジャッジに巻き込まれていく。
視線をカメラに戻すと、光がいろんなところに当たって動き回って、それは太陽ではなくレフ板の反射の光だった。光に射られて、視線に射られて、笑って、とにかく笑うんだ、と言われている。笑いは口角を上げることで、辰子にとってそれ以上でもそれ以下でもなかった。
(『うつせみ』より引用)
肩書きこそ違うが、こうした撮られる・見られる身体感覚は、紗倉さん自身が体験してきたもののはずだ。読者が体験しようもない人生の感覚が、文章を通じて、生々しく体の中へと入ってくる。
辰子のすぐそばには、対比のようにして、一番人気で見た目にも相当気を遣っている「みぞれちゃん」がいる。辰子と「みぞれちゃん」は仕事への姿勢こそ対照的だが、窮屈そうな日々を送っているのは変わらない。そこへ、「ばあちゃん」が別のベクトルの対比になってくる。周囲からどんな目を向けられようが、“年甲斐もなく”美を欲する「ばあちゃん」は、突き抜けていてまぶしい。
見られる痛み、欲望する痛み。紗倉さん自身の世代だけでなく、年配のキャラクターの中にも同じものを見出すことで、このテーマは強固な普遍性をもつ。読者として欲を言えば、作中で「痛み」という言葉が抽象的に使われている感があったので、その「痛み」はどんな感覚なのか、さらに具体的に知りたい、書いてほしいと思った。
AV女優というと、どうしても社会の周縁に位置付けられる存在だ。現役で業界に携わりながら、AV女優として生きる等身大の人としての感覚を、ここまであざやかに届けてくれる書き手には、得がたい価値がある。
ちなみに、『犬と厄年』では、実は紗倉さん本人は「ばあちゃん」が苦手だったと書いている。まるでさくらももこさんの祖父が、『ちびまる子ちゃん』の友蔵とは正反対の意地悪じいさんだったという話のよう……。2020年の小説『春、死なん』についても触れられており、『犬と厄年』は小説の副読本としても楽しめる。
文:梁木みのり(BEST T!MES)
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